Textile

Adireアディレの話

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アディレ・エレコとは

アディレ(Adire)とは、ナイジェリアに住むヨルバ族伝統の藍染め布です。ヨルバ語でAdiはtie、reはdyeで、Tie-dye、つまり絞り染めを意味します。もともとアディレは絞りの布でしたが、型染め、手描き、ミシン絞りなど時代とともに技法が増え、今ではヨルバ族の防染された藍染布の総称になっています。なかでもとりわけ美しいのが、キャッサバのペーストで柄を描いたアディレ•エレコです。Sololaはふしぎな魅力のこの美しい布に惚れ込み、生産を始めました。

アディレ•エレコは、キャッサバのでんぷん糊で柄を描きます。筆には鶏の羽やパーム椰子製のほうきを使います。アディレの様式は、升目を引きその中に伝統柄を配置するというものです。柄にはそれぞれ意味があり、モチーフには身近な日用品や生き物、建造物やことわざなども用いられます。中には、20以上からなる柄を組み合わせた1つのパターンもあり、”Ibadandun” (=都市イバダンは最高)や”Olokun” (=豊穣の海の神オロクン)とよばれるものが有名です。

エレコとは「ペーストを使った」の意味です。エコ(またはラフン)と呼ばれるキャッサバの澱粉をペースト状にした糊で柄を描きます。キャッサバ粉と水、白または青のミョウバンを混ぜながら煮詰め、ガーゼで漉したら糊のできあがり。蒸し暑い気候のため、糊は腐りやすく、作り手は毎日新しい糊を作ります。曲線は鶏の羽根を、直線はほうきに使われるヤシの葉脈を筆にして柄が描かれます。道具と呼ぶにはあまりにも素朴で、けっして描き心地がいいとはいえませんが、描き手は器用に柄を描き進めます。文字を持たない文化のため、柄の記録は作り手の頭のなかにあります。定規や下絵なども使わず、頭のなかのイメージを布の上に再現するのです。

乾いたら、糊がはがれないよう細心の注意を払いながら、布を藍液に浸けては乾かし、深い色になるまで何度も繰り返します。糊を搔き落とすと、糊が塗られていないところは藍色に、糊を塗ったところは白く残ります。仕上げに、もう一度藍液に浸け、白く残ったところを淡い水色に染めます。ヨルバの人々のあいだではそれが美しいとされ、同時に、きちんと作られたエレコの証でもあるそうです。エレコは、男性も身につけますが、主に女性の腰巻スカート、肩掛け布やラップドレスとして使用され、特に手の込んだものは婚礼の持参品にもなりました。

ヨルバの神話世界

ヨルバ族が信仰するのはキリスト教、イスラム教、そして土着宗教です。外来の宗教と違い、土着宗教はヨルバ発のもの。独自の神話世界には、名の通った最強神から小さな神まで、数百以上の神がみがいるといわれています。日本の八百万(やおよろず)の神がみにも似た世界観です。その中には短気、おっちょこちょいの神さまなどもおり、実に人間味にあふれています。この信仰は、ヨルバの祖先が奴隷貿易によって連れていかれたアメリカ大陸でも広まりました。キリスト教への強制改宗をさせられた奴隷は、 カトリックの聖人とヨルバの神々の姿を重ねて信仰することで、奴隷主の目をかいくぐっていたのです。そうしてカトリックとの混淆によって発展したのが、ブードゥー教(ハイチ)•サンテリア教(キューバ)•カンドンブレ教(ブラジル)と呼ばれる信仰です。

アディレと関わる3人のヨルバの神さまをご紹介します。一人目はイヤマポ、藍甕の守り神です。藍染め職人は藍を建てる際に、「どうかこの藍がうまく建ちますよう、お助け下さい」とイヤマポに祈ります。二人目はオロクン、豊穣の海の女神です。エレコの一番有名なパターンには神オロクンの名前がつけられており、その別名は”Life is sweet” (人生は楽しく甘美なるもの)です。最後はオシュンと呼ばれる豊穣の川の女神です。ナイジェリアには女神オシュンが住むとされる聖なる森があり、ユネスコの世界遺産となっています。毎年そこでは「オシュン祭」が行なわれ、祭のために国内外から多くの人が集まります。エレコの生産者によると、女神オシュンが一番最初に藍染めをし、その布を夫である神シャンゴに贈ったという神話が残るそうです。

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エレコの歴史

アディレには長い歴史があります。西アフリカでは12世紀頃より絞り染めが行なわれていたとされ、当時のアディレは手織りの木綿布に簡単な絞りを施した藍染布だったようです。19世紀の奴隷貿易の時代、ヨーロッパで工業生産された安価でなめらかなシーツ布が大量に入ってきました。それまで現地で使われていた地厚な手織り布と違い、薄くてハリのあるシーツ布は、より細やかで自由な表現を可能にし、エレコなどの新しい技術が生まれました。エレコは1900年頃に始まったといわれており、当初は王族が身につけていましたが、時代が変わり、民衆の手の届く存在になりました。エレコは注文に応じて生産され、主に家庭内で消費されていました。生産が盛んになると、市場で不特定多数の買い手向けの「商品」として販売されましたが、手のこんだ特別な一枚が欲しい時は、直接職人に注文していたようです。防染糊に用いられるキャッサバ芋は、奴隷貿易が盛んな17世紀に、栽培が容易であるためポルトガル人によって奴隷用の船内食料に採用され、ブラジルからアフリカにもたらされました。こうして、アディレにはその時代ならではのものが柔軟に取り入れられ、外の世界とつながることによってエレコなどの美しい布は生まれました。

昔ながらの藍染め

アディレでもっとも重要なのが藍染めです。藍染めは女性の仕事で、染め手をヨルバ語でイヤ•アラロ(=藍染めのおばさん)と呼びます。ヨルバ族は古くから藍染めを行なっており、染めには藍藤(英名:ヨルバインディゴ)という藍の葉を使います。ギニア湾沿岸で取れる藍植物で、若葉のときだけ藍の成分を持つとてもめずらしい性質です。藍葉は農家や専門業者から買ったものを、臼と杵でついて時々水を混ぜ、ついた藍葉をボール状にまるめ、天日干しにします。染め場は屋外にあり、藍甕にそのボールと水、灰汁を入れ、トタンで蓋をし、数日間置いたら藍液の出来上がり。この伝統的な手法で染めた色は、独特の美しい藍色で、とても繊細です。

今では、産地でも昔ながらの藍染めをする人はほとんどいません。理由のひとつに、合成藍の出現や、化学染料の普及があります。それらは簡単に手早く染められるため、あっという間に広まり、技術の低下と衰退をまねきました。また、教育水準や所得の向上により、賃金や生産性が低く、手や体が汚れる藍染作業は嫌われ、製法習得に何年もかかる伝統的な藍染は後継者を失っていきました。昔はたくさんあった染め場はなくなり、ある跡地には甕だけが残るそうです。今残っている藍染めのほとんどは、合成藍や化学染料を混ぜており、ヨルバ藍本来の美しい色ではありません。Sololaの染め手は、昔ながらの藍染めを続ける唯一の職人で、産地ではたいへん貴重な存在です。産地に通い、生産者探しを続け、幻と思われた染め手にやっと出会うことができました。それから、信頼関係を築き、技術的な相談を重ね、ようやく理想の藍染めが生まれました。

アディレの衰退

今やアディレの名品は博物館の中かコレクターの元にしかありません。新品の高品質なアディレが出回らないのは、現地でもほとんど手に入らないからです。わずかに作られているものの、その品質はひどく落ちています。時代が乱暴に変わってゆき、人々の生活と志向が変わり、アディレに憧れを持つ人、良いエレコがどんなものかを知っている人、そんな彼らもどこかへ行ってしまいました。 細かいエレコを描く名人、天然藍だけを使う染め手、今では彼らを探しても出会うことすら難しく、後継者が見つからないまま生産者がどんどん姿を消しています。

1920年頃、アディレは特産品として有名になり、主要産地には西アフリカ中から多くの買い手が集まるほどでした。しかし、1930年代に合成藍が産地に広まり、技術が未熟な新人職人がこぞって流入し、元に戻れなくなるほどアディレの技術は低下しました。1960年の独立以降、ナイジェリアは長い軍事政権の時代に入ります。軍事政権は自らの政権維持のため、伝統的首長らの政治的権力を削ぐべく、ヨルバランドの王様らを冷遇していました。当時は伝統的なもの全般がそのような扱いを受けており、アディレの衰退を助長しました。また、アメリカ政府系のボランティア団体がアディレに注目し、大いに復興を後押ししたにもかかわらず、昔のようには戻りませんでした。それから間もなく始まった民族紛争の影響や、欧米人の指導のもと広まったバティック(ろうけつ染め)、安価で色鮮やかなアフリカンプリントやレース布の普及もあって、現在アディレはわずかに生産されるだけになってしまいました。それでも、1970年代頃まで細かく美しいアディレの生産は続き、欧米人によって収集されていました。これほど素晴らしいものがあっけなく失われてしまう、それもまたナイジェリアらしい。ただ、この美しい布が人知れず死に絶える前に、一人でも多くの方にその存在を知って頂きたいのです。

Sololaのアディレ

Sololaのアディレ•エレコは柄の細かさにこだわり、天然のヨルバ藍だけで染めた、過去の名品にも負けない品質です。他にも、伝統柄に登場する動物達をアレンジしたSololaオリジナルのエレコもございます。たくさんの方にアディレ•エレコの魅力をお届けできたら幸いです。

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1/鶏の羽根を使い慎重に柄を描く作り手。2/それぞれ意味を持つアディレ•エレコの文様。3/キャッサバのでんぷん糊と鶏の羽根。4/オシュン祭の祭壇。中央は女神への供物を入れたひょうたん。5/染色前と染色後のエレコ布。6/現代の人々が好む色鮮やかな布。Photo : The Power of NAIJA @ 2010 kuwabow 7/屋外の掘っ立て小屋で藍染めをする染め手。8/ヨルバ藍の生葉。葉の黒ずみは滲みでた藍の成分。9/アディレ•エレコを纏うヨルバ族の女性。

Kenteケンテの話

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ケンテのこと

「ケンテ」とは、ガーナおよびトーゴで特別に織られる祝祭の儀礼用布です。幅10cmほどの細長い布を縫いあわせ、大きな布に仕立てたものを、男性はローマ時代のトーガのように体に巻き付け、女性は肩掛けや腰布に使います。西アフリカのほかの地域でも細幅布は作られますが、ケンテ•クロスはとりわけはなやかな色と装飾的な柄が特徴です。

そもそも、「ケンテ」とはかつてのアシャンティ王国(いまのガーナ)の伝統的な宮廷衣装のことで、王や貴族だけが身に着ける特別な布でした。その後、「ケンテ」はこれらの地域で織られる儀礼布の総称に使われるほど有名になりました。現在はエウェ(Ewe)族とアシャンティ(Ashanti)族によって生産されています。両部族は起源が異なり、それぞれの文様や色使いだけでなく技法や織機にも違いがあります。今日のガーナでは、アシャンティ族のケンテが一般的に出回っています。

ケンテを織るのは男性の仕事です。工房には親方と職人がいて、それぞれの職人は親方の指示をうけて担当した柄を織ります。織り手は色とりどりの綿糸を使い、水平式とよばれる手織機でケンテを織ります。現在、アシャンティ族はケンテにレーヨン糸を用いますが、その昔は絹糸が使われていました。初期のケンテは藍や生成り糸による縞や格子柄でしたが、18世紀初頭頃から交易や沿岸部からもたらされたヨーロッパ産の絹織物をほどいた絹糸でケンテを織るようになったと言われています。この頃よりケンテは数百以上の文様が生み出され、現代に伝わるようなはなやかな布へと発展しました。その後、現地でレーヨン糸が市販されるようになり、1920年代には高価な絹の代わりにレーヨンを使うことが一般的になりました。

Sololaのエウェ・ケンテ

Sololaのケンテはエウェ族の職人に特別に注文しています。色やデザインはSololaによるオリジナルや過去の名品の復刻で、職人とともに糸一本一本の色や配置を細かに相談して決めています。

エウェのケンテは主に木綿糸から作られます。ケンテの文様にはことわざや格言などの意味があり、エウェ•ケンテはそのさまざまな表現と深みのある色合いが魅力で、世界中の染織コレクターに愛されています。ただ、そこで取引されるのは年代物のエウェ•ケンテばかりです。近年、高品質なケンテを織る技術を持った織り手が減ったからです。また、こういった特別な布は受注生産であるため、産地に行っても完成品の「よいケンテ」にはなかなか出会えません。注文できたとしても、製作に時間がかかり、非常に高価です。そのため、Sololaが扱う、現在生産されている「昔の名品のようなケンテ」は、現地でも手に入りにくい非常に珍しいものです。

Sololaのケンテは色合いにこだわっています。時を経て美しく色が褪せた年代物のケンテに比べ、新品のケンテは新しい糸を使うため色がとても鮮やかです。現地の織り手は染色済みの糸を専門市場で買うのが一般的ですが、その色は目の覚めるような原色が多く、そのままだと激しい色合いのケンテになってしまいます。Sololaは現地で手に入る限られた色の中から、希望の色に近い糸を探し、職人と話し合いながら一本単位でケンテの配色を決めています。また、どうしても化学染料では出せない色のときは、ナイジェリアの天然藍で染めた糸を使うなど、Solola独自の試みもしています。そうすることで色の深みが布にうまれるのです。

ケンテのいま

いま現地で、ケンテ•クロスはおもに観光用土産品として生産されています。現地の消費者が伝統儀礼や祝祭のため特別に注文することもありますが、ごくわずかです。お土産用ケンテはアシャンティ風であるのが特徴で、艶があり鮮やかな色合いで、中にはアルファベットで地名や名前を織り出したものなどもあります。織り手いわく、そういったお土産用ケンテは価格が安く、あちこちで売られているため、観光客の多いガーナでは買い手がつきやすいそうです。そのため、近年では各地のエウェ族の織場でアシャンティ•ケンテ風の織布を生産する風潮があるとか。また、部族間の織り手の流動もあり、境界線が曖昧になっています。ガーナの布市場では、ケンテ柄のアフリカンプリント布が売られています。この布は民族衣装のほか、シャツやドレスなど「ガーナ風」の洋服に仕立てられたり、お土産品としてバッグや小物に加工されます。高価な本物のケンテよりもはるかに手頃で、用途が広がる地薄のプリント•ケンテ布は、現代のガーナ人のニーズに合った布なのでしょう。

本物のケンテは、特別な時のために、特別に織られる美しい布。Sololaは知られざるケンテの魅力を多くの方に知って頂きたい。額縁に入れて壁に飾ったり、ソファーに掛けたり、ケンテはインテリアのアクセントにぴったりです。職人が心を込めて織った、長い歴史と文化を持つこの布を、ぜひお部屋に取り入れてみて下さい。

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1/エウェ族のケンテ•クロス。2/西アフリカで広く織られる細幅木綿布。3/ケンテを織るアシャンティ族の織り手。4/美しい色合いのアンティークのエウェ•ケンテ。5/未来の織り師さんを発見、工房そばにて。

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西アフリカの綿布

西アフリカでは、各地域でさまざまな木綿布が織られています。その歴史は古く、11世紀頃にはすでに木綿布が使われていました。ひとくくりに木綿布といっても、シンプルな無地の平織りから透かしの入った広幅布まで、じつに多様な布がそれぞれの部族のあいだで織られています。

細幅布のふしぎ

西アフリカでは細幅の木綿布がよく織られています。この布は、タテ糸が床にたいして水平に張られている「水平機」という、西アフリカで広く見られる手織機によって織られます。この布は幅が10cm内外とたいへん細く、それらを縫い合わせて大きい布に仕立てます。その文化は西アフリカ独特のもので、サハラ砂漠の南側のサバンナ地方からギニア湾沿岸まで広がり、この機による織り作業はどの地方でも男性の織り師の仕事です。いまだ細幅布が広まった理由や起源は明らかになっておらず、「サバンナの謎」とされています。

ハウサ族やサハラ南緑の多くの部族は、生成りの木綿糸や藍染め糸で約2〜10cmの無地、縞、格子柄の布を織ります。その細幅布を縫いあわせ、腰布やイスラム式衣装に仕立てます。これらの布は織技術のない他部族への交易品にもなります。また、部族によっては細幅布に部族独特の文様がみられ、木綿や羊毛、絹などの色糸で浮織、綴織(つづれおり)、縫取織などの技法を用いて柄を織り出します。また、生成りの細幅布を縫い合わせたものに、泥染めで柄を描いたり、藍染めをしたさまざまな布も作られています。

ほかには、「垂直機」という手織機で織られた広幅の布があります。この機はタテ糸が床にたいして垂直に張られていて、織り手はイスに腰掛けた姿勢で正面を向きながら織り作業をします。約40~50cm幅のその布は、女性たちによって織られており、できた布はおもに自家用として使われます。この「垂直機」はギニア湾沿岸で広まり、ナイジェリアのハウサ族、ヨルバ族、イボ族の女性が織る文様布が知られています。このように、部族の数だけ違った文化と織物があります。古くから織物は人々の暮らしに寄り添い、さまざまな役割を果たしてきました。

手紡ぎの木綿糸

織物の行程は、まず糸づくりから始まります。サバンナでは、糸を紡ぐのは女性の仕事。糸の素材となる綿は、女性たちによって中の種が取り出され、毛並みが揃うようにすいて、竹ヒゴのような軸棒にコマのようなおもりがついた道具を器用に廻して糸を紡ぎます。昔は女性のたしなみのひとつに糸紡ぎがあり、女性は家族の服を糸から紡いで作っていた時代がありました。時は流れ、人々の生活は変わり、衣類は外で買うものとなり、それにともない織をする人も少なくなり、糸紡ぎの風景は減りつつあります。

ブルキナファソの細幅布

Sololaはブルキナファソで作られた伝統的な細幅木綿布を扱っています。乾期の暑さが厳しく、世界で最も貧しい国のひとつであるブルキナファソは、労働人口のほとんどが農業や牧畜をしており、なかでも綿花の栽培が盛んです。ブルキナファソの女性が手で紡いだ木綿糸をつかい、男性の織り師が「水平機」で織った細幅布です。格子柄の布は、伝統織物の保護活動をするグループによって織られました。それらを縫い合わせた大きな布や、小物に仕立てたオリジナルの布雑貨、うつくしいアンティークの藍染め布なども販売しています。

男性の織り師は屋外で織物をします。アフリカの太陽の下、同じ作業を繰り返し、ひたすら布を織り続けます。織り上がった布はロール状に巻かれ、地元の市場に売りに出されます。アンティークの藍染め布は現地の村をまわって集めたものです。はじめは濃い藍色だった布は、人に使われながら長い時間をかけて色が落ち、美しく色が褪せていきます。藍色の濃淡のせめぎ合いは、まるでひとつの絵画のようで、時間がつくった色の芸術は、時を忘れてしまうほどの美しさです。ぜひ、ご自宅のインテリアに取り入れてみてください。

ハウサ•ブランケット

カノからニジェール国境にかけて多く見られるという綴(つづれ)織布です。おもに寝具として使用され、「水平機」を使い男性の織り師によって織られています。布のヨコ糸には手紡ぎ木綿が使われ、白い地色に藍の菱形文様や百足文様を横縞の間で繰り返します。どこかモダンでこざっぱりとしたこの布には、どの時代にもとけ込む柔軟さがあります。手紡ぎならではの素朴な手触りが心地よいこの布は、使いこむうちに柔らかくなり、どんどん風合いがよくなっていきます。

この布を織るハウサ族は、ナイジェリア北部からニジェール南部に住む、西アフリカ最大の民族のひとつです。イスラム教を信仰し、ハウサの男といえば「商人」のイメージがすぐ浮かぶほど商業手腕に長けた民族です。どんなに商売相手との駆け引きが白熱しても、お祈りの時間になると何事もなかったように一緒に祈り、終わるやいなや商売の続きが始まります。

ハウサ族は古代よりサハラ砂漠の交易ルートを通じて、地中海文化や北アフリカのイスラム文化の影響を受け、また、これらの地域とギニア湾沿岸との通商に関わり、次第に勢力を蓄えていきました。10世紀初めには、現在のナイジェリア北部のカノやザリアなどに都市国家を築きました。藍染めで有名なカノで染められた藍布は、交易品として西アフリカ全域に行き渡りました。ハウサ族の商売センスは、こうして長い時間をかけて培われたものであり、彼らが強力な民族であり続ける理由のひとつです。

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1/「水平機」を使って細幅の木綿布を織る職人。2/ロール状に巻かれた細幅布。3/足を使い糸を巻き取る織り手。4/ふわふわのワタをつける収穫期の綿花。5/水平機の筬(おさ)は織布同様、幅が狭くずっしり重い。6/寝具に使われるハウサ•ブランケット。

Other各地の布

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クバ王国のラフィア布

コンゴ民主共和国(旧ザイール)のクバ王国ではラフィアヤシの繊維でできた織物やアップリケ、刺繍など、様々なラフィア布が作られています。クバ族はたいへん豪華な伝統衣装を創り出すことで知られ、周囲の部族からバンバラ(=布を纏う人)と呼ばれるほど。

なかでも有名なのがブショング族による「アップリケ」とショワ族による「草ビロード」です。ブショング族もショワ族も、同じクバ王国を形成するクバ族のサブグループです。クバ王国は、王の率いるブションググループの他に、17のグループからなる伝統的首長が王国を形成しています。興味深いのは、それらの布が儀礼や祭事の「晴れ着」であり、葬儀における「死に装束」でもあるということです。彼らの中には、葬られる時に着ていて恥ずかしくない立派な衣装を生きている間に完成させねば、という考えがあります。そのため、暇を見つけては儀礼衣装や装飾品の製作に精を出すそうです。

ラフィアヤシの草ビロード

この布はショワ族によって作られるラフィアヤシの刺繍布で、「草ビロード」と呼ばれています。ラフィアヤシの糸による布表面のもこもこした突起が、まるでビロード布のようであることから名付けられました。土台となるラフィアの平織りの布に、染色したラフィアの糸を刺繍して、もこもこの幾何学文様を描き出します。刺繍は、線を描く技法と、もこもこの突起をつくる技法の二種類に分けられます。ショワ族の女性たちの無限ともいえる独創的な幾何学文様のパターンは、単純なわずかふたつの技法から生み出されているのです。刺繍の突起は後で切りそろえられ、もこもこしたビロード状になります。現地では織は男性の仕事で、刺繍は女性の仕事とされていますが、最近では布が工芸品として売れるため男性も刺繍をします。

草ビロードの魅力は、その自由な幾何学文様にあります。作り手は下書きなしで文様を縫い進めるため、左右対称の乱れや不均衡がうまれたり、最初と最後で柄が変わったりとたいへん奔放な表現ともいえます。しかし、その予定調和でないところが、見るものの予想を心地よく裏切ってゆき、なんとも目を楽しませてくれるのです。

もともと、草ビロードは身内の葬儀の際に亡きがらを包むために作られた布でした。その布づくりは妊娠中の女性の内職だったといわれています。一枚の布を完成させるには、長い時間をかけて気が遠くなるほど刺繍を繰り返さねばなりません。お腹が大きくなり、畑に出ず家に閉じこもるようになった女性たちは、少しづつ製作を進め、しばらく置き、翌日もしくはもっと後にまた少し進め、その間にモチーフに飽きて変えてみたくなったり、手持ちの染め糸の状況によって色が変わったり、、そうして生まれた自由な幾何学文様は、女性たちが楽しみながら布を作っていたことを物語っています。インテリアを彩るモダンな草ビロードを、ぜひお部屋に取り入れてみて下さい。

バティック

バティック(ろうけつ染め)はアフリカで広くおこなわれています。ここでご説明するバティックとは、手作業によるものを指します。技法でみると、アフリカンプリントもバティックと言えますが、あちらは機械によって工業的に生産されたものです。カラフルで大胆な色柄のバティックは、ドレスやシャツに仕立てられ、たくさんの人々が好んで着ています。地域によって製法は多少異なりますが、工業製の布と化学染料を使いとけた蝋で柄を描く、という基本は同じです。

ナイジェリアでは、先を尖らせたスポンジをペンのように使い、融かした蝋を含ませて柄を描いたり、芋版のように柄を彫ったスポンジで布にスタンプをします。蝋が乾いたら染色し、それからお湯をはった鍋で布を煮て、布にくっついた蝋をとかして取り除きます。すると、蝋が剥がれたところは染め残り、染める前の生地の色があらわれます。染まったところと蝋によって染まらなかったところのコントラストが柄を浮かび上がらせます。これを何度も繰り返すと、色と柄が何層にも重なり、さらに複雑な表現が可能になります。一度使用したろうは新しいろうと混ぜるなどして再利用されます。

ナイジェリアではバティックの作り手は男性であることが多く、徒弟制により技術を習得したり、現役の作り手が開く教室に参加し製法を学ぶこともあります。「バティック•アーティスト」として外国人を相手に仕事をする作り手もいれば、地元のお客さん向けに生産する人、国内外への販売用に大量生産する工房の職人など、さまざまな規模でバティック作りが行なわれています。

一方、ガーナの作り手はおもに女性です。国際協力•支援活動が活発なガーナでは、国内外のさまざまな団体が女性グループと関わり、現金収入を獲得するためのものづくり指導や製造販売を行なっています。バティックはそのような女性たちによって作られており、おもに観光客向けのお土産品として服や布雑貨に加工されます。また、都心部ではガーナ人がバティックを洋服に仕立てて着ているのをよく見かけます。バティックはガーナの人々のあいだで一般的なものとなっています。

アフリカの布

アフリカの各地には様々な布があります。アフリカ大陸のなかには、東西南北でがらりと違う文化があり、そのなかにも数えきれないほどの民族集団と染織文化があるからです。古くから、人間にとって布を纏うことがいかに重要視されてきたかを知るにつけ、布という存在が、単なるモノではなく、社会的な機能をもつ道具のようにも思えてきます。地位を誇示するための布、財産としての布、オシャレのための布、家庭の布、祈りの布、と様々な社会的役割がそこにはあるからです。見た目の美しさの奥にあるものを探ってみると、新たな出会いと発見があります。そんな魅力溢れるアフリカの布を、少しづつご紹介できたら幸いです。

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1/ガーナのスタンプ染め「アディンクラ」。2/コンゴ民主共和国のクバ王国の草ビロード。3/それぞれ意味を持つアディンクラ布の文様。4/自宅でバティックを製作する作り手。5/アディンクラ布のひょうたん製スタンプ。